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ニュースでの吹き替えに違和感を感じるのは私だけだろうか

最近、国際関係のニュースがメディアを賑わせる機会も多く、報道番組における外国人の発言の吹き替えが気になるようになってきた。例えば、某国首脳が会見をしている時に、特定のイメージを誇張して吹き替えているような印象を受けることがある。

 

吹き替えが持つ難しさ

報道番組も編集の過程を経る以上、公正・公平な報道に当然のこととして努めていたとしても、携わる人の解釈なり意図を完全に排除することは難しい。そのこと自体を問題視しても仕方がないのだが、門外漢ながら、NHKの「放送基準」や「放送ガイドライン」、民放連の「放送基準」を眺めていると、「正確性」と「分かりやすさ」のせめぎ合いのような気がしてきた。

特に外国人の発言の吹き替えについては、その難しさを感じる。声質や、イントネーション、訳語の選び方等、様々な要素が絡み、それぞれに制約と解釈が影響する。「正確性」を重視すれば、日本語を母国語とする人が発言していたと仮定した時と同じ伝わり方となるのが望ましいのだろうが、不可能に近い。他方、「分かりやすさ」を重視すれば、話し手が持つイメージやメッセージの本質が伝わりやすい表現を工夫していくことになる。ただ、やり過ぎれば、事実を歪める恐れがある。では、各種要素を標準化し、画一的な運用をすれば良いのか。恣意性に関する批判は避けられるので、無難な対応な気がするが、それで本当に良いのかと問われると、、、

 

役割語の使われ方

そんなことをつらつらと考えていた時に、「再考 オリンピック放送の「役割語」|NHK放送文化研究所」(太田眞希恵、2017)という論文に出会った。

この論文は、外国人選手のインタビューの翻訳テロップにおいて「役割語」がどう使われているかを、オリンピック放送を事例に分析したもの。ウサイン・ボルト選手について、「俺」や男性役割語の使用が目立つ中、「これが最後のオリンピック」と話しているときには「私」や「です・ます体」が使われるなど、「場面」や「話の内容」が役割語の使われ方にも影響していると分析し、特にオリンピック放送において各選手の「物語性」(例えば、スター、ライバル、挑戦者)を重視した時に、役割語が使われやすいとしている。

 

まず、役割語とは何か。論文で引用されている日本語学者の金水敏・大阪大学教授の定義は、孫引きすると以下のようなもの。

ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。

 

役割語とは、言語上のステレオタイプに他ならない。

 「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」(金水敏)  

面白いなぁと思うのは、著者の太田さんが、

テレビで放送されるスポーツニュースやスポーツドキュメンタリーには、「物語」が織り込まれている。もちろん、フィクションではないのでそこに「創作」が入る余地はないのだが、「特定の登場人物と一連の流れのあるストーリー」が、事実に基づいて展開されることになる。

(略)

そして、その選択の中には、「登場人物」が外国人選手である場合、発言した外国語のインタビューをどのような日本語に訳出するのか、ということも含まれる。

(略)

このように、オリンピック放送で使われる役割語訳は、外国人選手が語ったことば(=外国語)が翻訳される際に、その発言内容を「製作者から視聴者へ向けられたコミュニケーションの回路」にのせ、そのニュースや番組の「物語」を効率よく伝わりやすいような形で視聴者に提示するために使われているのだ、と考えることができる。

としたところ。

 

物語としてのニュース 

個人的には、ニュースは事実の伝達といった無機的なもののように漠然と思っていたが、ニュースを「物語」として見ることができるのなら、外国人の発言が、時に特定のイメージを持たせるかのように吹き替えられるのは理解できる。その方が、分かりやすいし、面白くもなる。ただし、物語としての側面を強調しすぎれば、当然、正確さや公正さを損ないかねない。

番組としての価値を考えると、即時性の高さを追求している番組は、事実の伝達を重視し、時間が経ってからのまとめや解説の要素が高くなる番組は、一定程度の物語性が許容されているような気がする。

ニュースに物語性を認めるかについては、大きな議論がありそうだが、私が吹き替えに違和感を感じていたのは、報道の物語性をどう考えるかといった点に起因しているように思う。